多才なのか頭が変なのか

『ウェディングベルを鳴らせ!』を見たゼ!-空中キャンプ
を読んだゼ!
その映画、エミール・クストリッツァってヤツが撮った映画だっていうのです。どっかで聞いた事あるけど…え、そいつって変な曲作る人じゃないの?と思ったらやっぱりそうらしくって。
Emir Kusturica & The No Smoking Orchestraってやつのアルバムを僕は持っていたわけです。このアルバムがまた変で、自由と言えば自由なのだけれど、まぁ異国な感じであります。こういう楽曲を作るような人間なのだから、映画も妙なものなのだろうなと思うのです。

PVを初めて見たけれどこんな感じなので、映画もこんな風なのでしょうか。

しかし、クストリッツァという人はなんというか、自由にもほどがあって、そのような映画的文法をわりとかんたんに跳躍してしまう。たとえば冒頭でやってくる車のなかにいる三人組は、なぜか車のなかで踊っている。なぜ? わからない。
その後の展開を見ても、彼らが踊りながら登場する必然性はまったくない。しいていうならば、この演出の理由は「踊っている方がおもしろいから」であり、そんなふうに演出できるクストリッツァは際限なく自由である。

と空中キャンプさんは書いていらっしゃいますが、理由は演出上面白いからとかいう訳でも特になく「踊る」という行為が日常に根付いているからではないのでしょうか。西洋の詩は韻を踏むのが当たり前で、それは耳触りが良いからという理由はあるのでしょうが、それ以上の明確な何かがあるかと問われるとそうでもないとかいうような事をどこかのブログ(たしか内田樹氏のブログだったような)でかつて読んだ事を思い出し、そんなような事ではないのかと思った次第です。いや、ちょっと思っただけ。それに加えて気分が良いと踊る我が娘を思い出しまして、それは頭で面白いと思ったからじゃあ踊ろう、というのではなくもっと身体化した行為であるのではないかというように考えまして、そこからクストリッツァのそれも同様なのではないかと思ったわけでありました。


と以上を書き終えて、僕は愕然とするのでした。
映画の公式サイトを見るに及び、僕はクストリッツァが映画監督なのを知っていたということを思い出したのです。そもそも『黒猫・白猫』というクストリッツァの映画を妻が観て気に入って、その繋がりでこのアルバムを買ってきたのでした。
あぁ、すっかり忘れてた…